森下正明研究記念館によせられたメッセージ

森下先生の思い出

京都大学博士(理学)・大谷大学名誉教授 

  1. 京都西賀茂での蝶の季節分布 
    • 参考:森下正明(1967) 京都近郊における蝶の季節分布
      (森下正明・吉良竜夫編 『自然』 中央公論社)
    • 1950年4月に森下先生から「蝶の出現状態を調べたいので協力してくれないか」というお話があり、4月29日に西賀茂へ出掛けた。御園橋の西詰から加茂川の右岸の堤防上を北へ、あと堤をおりて田畑の間を西へ進み、山麓の雑木林など環境の異なるところを歩きながら柊野ダムの北の高橋まで、出てくる蝶の種類や個体数を調べながら歩いた。そのあと上流へ少し歩いた山道を市原へ出たのだが、その折、森下先生のお話の大部分は蝶の話ではなく河童の話であった。真面目に話をされたので、私もその後真面目に河童のことを調べたりした。蝶の調査はその年9回おこなった。

       

  2. アリジゴクのこと
    • 1950年6月に鴨沂高校生物研究会(鴨沂生研と略称している)の同窓会を比叡山で開いた時、延暦寺釈迦堂へ行った。廊下の下の土の中のアリジゴクの巣が多数見つかったがその時森下先生がこれを採集しようと言われて、みんなで沢山採って水筒などに入れ持ち帰った。これは森下先生が実験に使われるという事だった。しばらくして九条山のお宅に伺った時(先生は洋間のアンペラのリノリウムぬりの床の上に畳を敷いてその上にふとんを敷いて寝ておられた(当時は病気療養中で)が、その布団のまわりに沢山のへぎ折の弁当箱を並べて、そこでアリジゴクを飼っておられた。
      この箱の中にいろいろな砂を入れて、アリジゴクの棲息密度を実験的に調べておられたのである。
    • このアリジゴクのご研究は数理生態学の多くの研究の中でも白眉のものではないかと思う。

       

  3. 大陸(中国・シルクロード)への想い
    • 先生はよく「中国・シルクロードが面白い」と言っておられた。昭和24、5年頃『大興安嶺探検(漠河隊)』の原稿を書いておられて現地で撮られたトナカイの写真やトナカイオロチョンの写真もみせていだいた。(その1枚の写真を頂戴した)。
      トナカイオロチョンという名前や彼等の生活についても教えていただいた。先生はこの探検の時に日本から抹茶の点前の道具を持っていかれて、折にふれて点てておられていたという。満州の奥地の街では日本人の婦人たちにお点前をされたそうで、その時に日本の婦人達が大変喜ばれたということであったが、淋しい未知の異国の地の女性達にとっては「さぞかし」と思う。私は昭和27年の毎日新聞社の『大興安嶺探検』という冊子も所有しているが、この漠河隊の章は何回も読み返した。平成3年に朝日新聞社から朝日文庫として出版されたものは直接先生から頂戴した。

       

  4. 森下先生と数学
    • 昭和25年頃、鴨沂高校生物研究会の一人の女子生徒が魚の頭部にある耳石の形がその魚の形に似ているのではないかと考えて魚の体長・体高を測り耳石の長さと巾を測って、その間に相関関係があるかどうかということを論じようとしたが、どのようにまとめたらよいかと迷っていた。その時、森下先生が推計学的に検定の方法を教えてくださってその方法で検討し研究会の機関紙に発表することができた。
      先生は、うそか本当か判らないが「数学が苦手で嫌いだったので、大学入試の時に数学の試験が無かった農学部を受けたのだ。」と言っておられたが、後年難解な数学を使った生態学を発展させられたことは、先生の才能の奥深さを示しているように思われる。

       

  5. 九条山の旧日佛学館のお宅と御蔭通白川北東角のお宅
    • 先生は昭和23年10月に京都府立高等学校が再編成(地域ごとに生徒が入れ替えれた)された時に京都府立鴨沂高等学校に『生物』の教諭としてみえられた。当時、九条山にあった旧日佛学館に住まわれ、病気療養をしながら研究もするという生活だった。
      私は先生に何かひかれるところがあって(私だけでなかったが)しばしばお宅にうかがった。病気の先生をお見舞いするというより邪魔をしにいっていたことになったと思うが、行きは京津電車(京阪電車京津線)の九条山駅でおりて上り、帰りは蹴上駅へおりてきた。春には九条山には桜の木が結構沢山あって美しかったこと、十月末(たしか三十日)に蹴上駅で電車を待っていたとき、大変寒かったなどを憶えている。
      旧日佛学館はフランス風のお洒落な建物で何か絵に画きたくなり、通っていた当時、水彩画に画いた。白川通りと御蔭通りの交差点の北東の角の家に越されてからもしばしばお伺いして、白川の琵琶町までご一緒に歩いたこともあった。昭和27年に九州に赴任される時は京都駅までお見送りした事を記憶している。

       

  6. 森下先生と鴨沂高校生物研究会(鴨沂生研と略称)
    • 鴨沂高校に生物科の教諭として着任されて以来、生研の活動にいろいろの助言をいただいた。先生と生徒の間には普通の生物の教諭という関係以上に深い精神的なつながりが育っていった。昭和27年に九州大学へ行かれる時には生研同窓会が鴨沂高校で歓送会を開いたし、昭和40年に京都大学教授として戻ってこられた時は先生の思い出の北山で開きたいと思って、鞍馬の鞍馬温泉で歓迎の同窓会を開いた。その後、鴨沂生研同窓会を開く度に連絡をしてほとんどの会に出席していただいた。先生のいろいろなお祝い事も、生研同窓会でもお祝いをした。平成7年(1995年、なくなる2年前)烏丸鞍馬口近くの『瓢亭』での会が最後になってしまった。
      先生にはこの生研同窓会で洛北の山中にある拙宅へも二度ばかり来ていただいたが来られると早速アリの採集をされて珍しいアリがいたと言っておられた。

      鴨沂高校生物研究会・機関紙 『NATURA』(その1)(その2) ※ファイルのサイズの関係上分割しています

       

  7. 森下先生と私
    • 小学校入学以来多くの先生に接してきたが森下先生は私にとって特別な先生であった。何かというと森下先生に会いに行く、話しをしたい、相談をしたい、そういう先生に出会ったのは最初で最後であった。先生のどこがどうなのかは今でもわからないが私は今でいうストーカーのようだったかもしれない。
      昭和40年に京都に戻られてからも、百万遍近くにお宅(現・森下正明研究記念館のある所)にしばしばお邪魔し、家族連れでお伺いしたことも何度かあった。
      今から考えると失礼だとかご迷惑だとか考えなかったのだろうかと、振り返ってみて恐縮するばかりである。 

       

    • 2011年9月

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