京都府立鴨沂高等学校・生物研究会 機関紙『NATURA』 1949年 森下正明著
科学のために
近代科学の勃興は、社会の諸変化の直接影響とともに、また人間が自己の理性の価値に目覚め、おしつけられた概念、事実に基づかないドグマから自らを解放した所からはじまる。 理性は自然をゆがめられた形でなく、ありのままの姿で見直すことを教え自然の法則はそれらのもろもろの自然現象を注意深く観察し実験することによってのみ見出されることを明らかした。こうして科学ははじめてその輝かしい発展の道をたどることができた。 わらわれは科学を愛する。科学を愛するというかわりに真実を愛するといってもよい。もっとも愛には必ず行為が伴うものすれば、われわれはむしろ真実を求めることを愛すると いった方が更によいかもしれぬ。だがその真実なるものをわれわらは一体どのようにして求めようとするのか。私はさきに自然現象を注意深く観察し実験するといった。それが第一の要件 であることは勿論である。しかしその観察や実験の方法や結果が誤っていないことを一体どうして判断するか、あるいは一連の観察から導き出される推論の正しさをどうして保証するのか。 「比類のない観察者」としてダーウィンを賛嘆させたファーブルの優れた観察はかえって彼の進化論反対者としての立場に強固な支柱を与えるばかりであった。 どのようにしてそのようなことになったのであろうか。自然の法則は自然を忠実に観察することによって自らつかみだせるはずである。はずである が、悲いかな人間の眼にうつった自然はいつも自然の正しい反映とばかりはいえなかった。花弁の数がなぜ、おしべの数が何本といった個々の観察ならまだしも比較的誤りなしなしに 行いえるかもしれない。だが花弁の花とおしべの数との関係となれば個々のただいい観察を行いながらも人によってちがった結論を生み出さないとは言えないだろう。どれだけの材料を、 どんな範囲のどんな状況での材料を見たか、それからどんなふうに結論を導いて行ったか、ひとつの結論の正しさを知るためには徹底した批判が行わなければならない、透徹した批判 が行わなければならない。事物を広く見る眼と鋭い批判精神が働かねばならない。こうして新しく真実なるものと真実ならざるものをと見分ける道が開かれるであろう。科学精神 とはおよそこういった批判精神を基調とするものではないか。 しかし真実なるものを真実ならざるものを見分け得たとしてもまだ問題は残る。いかにしてその真実につき進むか。 われわれは権威や利害に屈服して真実を放棄した多くの例を知っている。だが安易な妥協やごまかしは科学精神とはおよそ正反対のものである。真に科学を愛するものがどう してそのようなごまかしを許せるだろうか。老年と屈辱に力を失いながらも「それでも地球は動く」とつぶやいたガリレイの声を聞くがよい。科学精神はどこまでも真実につきすすむ 事を要求する。しかもその真実を求める心はただにせまい科学の世界だけに閉じこめられるものではない。すべての行動に思想に生活態度に、それは現れてこなければなら ない。科学精神に徹するということは全生活を貫いて真実を追及する態度を言うのではないか。だから科学者なるが故に科学精神をもつのではなくて、信実の生活を求める すべての人が科学精神を持ちえるし、また持たねばならぬといえるのであろう。またそうなってこそ科学はその発展のための広い地盤を見出すであろう。特殊な研究は科学者 だけが行うかも知れない。だがその科学者を生み出すものはそのような科学精神の広い地盤である。そしてまたその成果を正当に批判し、自己のものにし、しそして更に「科学は 万人のもの」というのはただに科学知識の普及だけを意味するのではないのである。