森下正明研究記念館によせられたメッセージ                      大串龍一

森下正明先生を偲んで

初めてお会いした頃

私が初めて森下先生にお目にかかったのは1949年の6月、大学に入って京都で暮らすようになってしばらく経った頃である。以下、当時の私たちのふだんの呼び方に従って森下さんと書く。新しい学制がはじまったあの頃、私たちは大学の先生方を「○○先生」と呼ばずに「○○さん」と言い習わしていた。吉井良三先生は「吉井さん」、桑原武夫先生は「桑原さん」だった。2007年に私の大学・大学院の指導教官だった森圭一先生が亡くなられた時、私は日本生態学会誌に追悼文を書いたが、その時もタイトルと文頭には森主一先生と書いて、あとは森さんとして通している。  私が森下さんをお訪ねしたのは今西錦司さんのご紹介によっている。私が四国の徳島の中学(旧制)・高校(新制)にいたとき、当時、香川高等農林専門学校(現在の香川大学 農学部)におられた岩田久仁雄さんからハチの習性研究の指導を受けていた。私が新制の京都大学の第一期生となったとき、岩田さんは京都に行ったらまず指導を仰ぐべき方とし て今西さんに紹介して下さった。実は私は京大に入る前ごく短期間(2ケ月)京都府立大学農学部に在学していて、今西さんにお会いしたのはその頃だったと憶えているが、新制 大学発足時のややこしい事情はここでは省く。 下鴨の今西さんのお宅の、庭に突き出した小さな部屋ではじめて今西さんにお目にかか ったとき、今西さんは自分はもう昆虫から離れたので、昆虫についての質問は森下に聞くようにと言われた。今西さんからはそれから「すみわけ論」や海外探検のお話をお聞きし たり、東京の出版社「陸水社」から頼まれてその当時世間ではほとんど読まれていなかった『生物社会の論理』再版のお願いをしたりした。  私はその頃は、戦時中に出され車『日本生物詰』の中で森下さんが分担執筆された『蟻類』を読んで、森下さんはアリの専門家と思っていた。最初にお目にかかったときアリで はなくアリジゴクやチョウのお話をされたのでびっくりした。 しかし私は京都にいた時は森下さんとあまり度々お話しした記憶はない。京大の教養部 の頃(1949〜51)昧戦後の窮迫と混乱の時期であった。父が亡くなって家庭が無かった私は経済的にもいつまで大学を続けられるか判らない落ち着かない気持ちだった。自然に関する関心も薄れていた。理学部の動物学科にはいって(1951〜53)からは森下さんは九州大学に赴任されたのでのでお会いする機会は少なかった。

九州時代

森下さんによくお目にかかってご指導を頂いたのは、私が大学院を終了して京都府衛生 研究所勤務の2年間の後に、1960年に長崎県農事試験場園芸分場に病害虫防除担当者として赴任してからである。森下さんの居られた福岡市の九州大学理学部は九州の生態学の中心であり、新しい流れを勉強して刺激を受けるために私は仕事の合間に絶えずここに通った。私の職場のある長崎県の大村からは半日で行ける所にあった。  当時、日本の農業はそれまでの水田稲作だけから園芸・畜産重視へと大きく転換しよう とする時期だった。河野農政のいわゆる「農業構造改善事業」が進み始めていた。九州各 県の農業試験場でも園芸病害虫防除担当者が絶えず連絡を取って、新しい作物病害虫防除 技術の建設を進めようとしていた。日本の工業が次第に再建してきて、化学肥料・農薬の 生産の増大を背景として、栽培管理の一分野であった病害虫対策が独立して活動し始めた 時期であった。日本の農業を大きく変えた農業機械の導入はこれからしばらく遅れて始まったのである。この農業改革の流れのなかで、それまでの病害虫防除技術に当時ようやく社会的にも注目され始めていた学問分野である生態学、特に個体群生態学を取り入れようということを考える技術者が増えてきた。そうして九州7県〔当時、沖縄県はまだ返還されていなかった)の園芸病害虫担当者が勉強会を持つことになった。その指導・助言者として森下さんをお願いすることになった。この取りまとめ役となったのは久留米にあった国立の九州農業試験場園芸部の故田中学さんであった。  当時、園芸(特に果樹)病害虫防除担当者が痛感していたのは、果樹病害虫の発生量あるいは生息数を、それまでのような担当者や農民の直感ではなくより確かな基礎のうえに 立って把握することであった。 その基本になるのは個体群生態学のテーマになっている 野外の生物の密度推定法である。この指導・助言者として森下さんはそのご専門の方向か らみても得難い専門家であった。  こうして九州各県の果樹病害虫担当者が集まって、宮崎県のえびの高原温泉で毎年夏の 合宿勉強会が始まった。霧島山系の中、夏も涼しいえびの高原で、朝から夕方までは森下 さんの講義と計算演習、そして各自の関心がある病害虫への適用についての個別の助言を 受けた。日が暮れると灯りもない暗闇の松林の中に散在する小さな自然の池のような野天 風呂に人づて、疲れた身体を休めながら星空を見上げていた勉強会のことは今でも楽しい 思い出である。  各県の担当者はここで野外の動植物の密度推定法の理論的、数理的研修を受けた。そう してそれぞれの県に戻って防除の対象としている病害虫について実際の調査と資料整理を おこない、次の勉強会のときに結果を持ち寄って発表し森下さんの助言を受けながら討論 した。全体の報告は1969年に日本植物防疫協会・九州果樹病害虫共同防除研究協議会 発行の 『カンキツ病害虫の共同防除の合理化に関する研究(総合防除へのアプローチ −     主要病害虫の密度推定敵.−』としてまとめられている。  私が九州で森下さんの指導・助言を頂いていた頃の果樹(主にミカン)農業とくに病害 虫防除の状況を、私は『天敵と農薬』(1990、東海大学出版会、改訂再刊は2010、海遊金)に書いてある。

 

金沢での交流 白山自然調査委員会のことなど

1965年に森下さんが京都大学に転任されてからも、九州の果樹病害虫研究会と森下 さんの関係は続いたが、時間とともに疎遠になることは避けられなかった。私も1971年に金沢大学に転任して九州を離れた。  京都と金沢という地理的な距離や、同じ国立大学の理学部生物学科で生態学担当という 立場では森下さんと近くなったが、それからも私は森下さんとお会いしてお話しする機会 は多くなかった。大学の事情や取り上げるテーマの違いもあったし、京都大学の動物学敏 室へ行っても森下さんと掛け違ってお会いすることが少なかった。森下さんの、ご健康があまりすぐれておられないのではと私は推察していた。教室で森下さんがお休みになっておられると聞いて、北白川の大学の近くのお宅までお見舞いにうかがったことがある。そのなかで私は別の形で森下さんとお会いする機会を持った。 1970年代から日本の社会は高度成長の生じてきた公害の防止から、次第に自然環境 全体の保全についての関心が高まってきていた。その動きはまず原生あるいは厚生に近い 自然環境の保護という形で表れていた。 石川県では北陸から東海地方に通じる白山スーパー林道建設の企画もあって、その環境影響調査のため白山地域の総合調査が開始されて いた。これは私が金沢に赴任する前から始まっていた。当時、京都大学の生態講座から自 然保護の担当者として石川県に就職してこの調査計画を組織していた花井正光君や水野昭憲君との関係で、森下さんは動物生態調査の指導者として関わっておられた。金沢大学に赴任したばかりの私はこうした高山の自然環境の経験もなく調査にはほとんど関係しなかったが、調査委員会の会合などで金沢にこられた森下さんにお目にかかることがあった。森下さんいつも金沢駅前のミヤコホテルに宿泊されていた。森下さんはご健康のこともあってか、白山のフィールド調査にはあまり参加されなかったようだが、カモシカの生活痕跡(糞、足跡など)から生息密度を推定する方式などを考案されていた。私は何回かミヤコホテルのロビーで森下さんのお話をうかがった。森下さんからは時折、ご研究の論文別刷りなどを頂いた。  森下さんは九州でのミカン痛害虫とか、この山地森林のカモシカとか対象にこだわらず に、ご自分のアイデアを活かし、多くの若い後継者に伝えておられたように感じる。定年少し前の1992年に、私はいろいろな形で研究者として私を育てて下さった岩田さん、今西さん始め日本の生態学を進めたいわゆる今西学派の方々のことをまとめて本にしたく『日本の生態学 今西錦司とその周辺』1992,東海大学出版会)。このとき森下さんの学問について私が考え、感じたことを述べた。この内容については一度森下さんのご意見をお聞きしたいと思っていた。しかし大学を定年退職してから直ぐに日本国際協力事業団の技術援助専門家としてインドネシアに赴任し(1995〜1998)日本から離れてすごしたために、森下さんがお亡くなりになったこともかなり遅れて聞いた。そうして森下さんのことはただ私の記憶のなかに残っている。

2011年10月 京都大学博士(理学)・金沢大学名誉教授

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