森下正明先生との思いで

うなぎの舞坂

九州大学名誉教授・九州大学 理学博士 

京都河原町三条に舞坂という「うなぎ屋」がある。 河原町のにぎわいの中にあって、しかも宝塚映画場のとなりでありながら静寂な店である。いわゆる京風の数寄屋造りの二階家で、私の恩師 森下正明先生とここにはよく来たものである。はじめは確か私が九州大学の助教授になって報告かたがた京都大学を訪れたころだった。「小野君、晩飯にしようか」とつれていかれた。しにせの雰囲気と気配りのいきとどいた京風のもてなしがもしかすると森下さん(以下親しみを込めてときにはさん付けを多用する)の気に入っていたのかもしれない。酒をたしなまない二人であるが、ここで大学の話、教育のあり方、 新しい研究の方向などについてしばし時間を忘れて話の花が咲いた。 

その後も幾度となく京都を訪れたが、夕食どきにたまたま先生と一緒になると決まって「舞坂に行こうか」 であった。 先生が京大を退官され、大病から回復され、心ばかり傘寿のお祝いを、とお誘いしたのも舞坂であった。ちなみに森下先生は九州大学に昭和27年から40年まで在籍され、その後京都大学に移られ、昭和51年に定年退官された。 その折りのことと記憶するが、 「最近、古いデータの整理をしていてね、群集の指数についてまとめてみたのだが、 現役の君の目でみて出版する価値があるだろうか?あるならば、 どこかに投稿したいものだ」という話がでた。

  草むらの一隅でも、森の木一本でも、生物の生息場所のひとかたまりには必ず複数の種が存在している。 そして、それぞれの種はそれぞれある個体数をもっている。その個体数と存在する棟の数との間には一定の法則が存在するのではないか。 もし法則があるとすれば、それはある指数でもって表現できないか。 もし指数として表現できれば、ある群集は種が豊かであり、あるものは貧弱であるということが判別できるのではないか。 これが群集の指数あるいは種多様性の問題とよばれ、1960年代の生態学のホットな話題であり、森下さんもこれに凝っていた。 群集の指数の問題は現代の環境アセスメントでも重要問題であるが、大方はお手軽にシャノン・ウイヴァーの式とかで片づけられている。 しかし、アセス上の大問題である「典型性」をどう抽出するか、といった場合にはこの群集の指数の意味するところを十分に吟味する必要があろう。 

  舞坂で相談を受けた私は早速に下書きの原稿を拝見した。 中身は森下さんの九大時代におこなったモデル群集からのサンプリングデータをもとに、 現在までに提案されているありとあらゆる指数について指数の精度をくわしく検討したものであった。 私は、これは後世に残る貴重論文になると思い、 数人の数理生態学の研究者にもみてもらい、 賛同を得たので、 出版する価値が大である旨をお答えした。 先生はたいへん喜ばれて 「私はもう学会の動向をしらないし、 現在の投稿規定などわからないのでよろしく頼む」 とおっしゃった。 その後、いくらかの紆余曲折はあったが、「種多様性指数備に対するサンプルの大きさの影響」として日本生態学会誌第四六巻(1996)に掲載された。 ときに先生は83歳であった。 原著論文を公表した学会始まって以来の最長老であると思う。 この方面の研究者はもうたいへん少なく、話題自体もホットでないせいかその後あまり引用あるいは再検討された論文はしらない。 しかし、さきにもふれたようにこれからの環境影響評価技術としては重要な内容であるので、以下にこの論文の骨子をのべておく。この研究はまず1センチ角ほどの厚紙のチップをつくることから始まった。 チップ1枚が1個体ということである。 これを499種類のグループ(種類)に分け、 それぞれの種類に属する個体数は対数正規分布をするように配置した。 横軸に個体数を対数目盛としてとり、 縦軸にその個体数よりなる種類の数が正規分布をするように配置するのである。 そのために全体の個体数(チップ数)は53,000となった。 これを自然界の群集と見なすわけである。 自然界では無限母集団を仮定すると種類数と個体数の関係は対数正規分布をすることはすでにプレストンさん(Preston;1948)やピールーさん(Pielou;1969)によって実証されていたので、 紙チップ群集も自然界のモデルと見てよいことになる。

  森下さんはこの母集団から種の組み合わせをえて総種数や標準偏差あるいはその両者の異なる八通りの別な母集団もつくり、 検討の対象としている。 種多様性の指数はシンプソンの指数(Simpson;1949)といわれるもの、 フィッシャーの対数級数を仮定したもの(Fisher;1943)、個体数を種の情報量として扱ったシャノン・ウイヴァ-指数(Shannon&Weaver;1949)の3つのグループに属するが、 沢山の派生的指数もこれまでに提案されている。森下さんは併せて27欄の指数をとりあげて、サンプルの大きさ(N)によって指数値が安定しているかどうかを網羅的に検討した。 検討の結果、現在広く用いられているシャノン・ウイ-ヴァ-指数(H')やH'/lnSはある程度大きな標本か、H'がごく小さい範問にしか適用できないこと、しかし補正を加えた式では充分適用可能であることが指摘されている。その補正式や新しく提案された指数についてはもとの論文を参照して頂きたい。また、今後もH'指数を用いる場合で、サンプルのサイズが中あるいは小であるときにはこの補正式によって補正を加えることが望ましい。 通常の底生動物群集などの調査ではサンプリングエラーが大きいのであるいはH'の誤差にはそれほど敏感になる必要はないかもしれないが、誤差の「上塗り」だけは避けたいものである。群集の指数を用いて典型性注目種などを抽出する技術などもこれから検討されるべき課題である。私はまだ充分な吟味をしていないが、注目する種をサンプルから外して、残りについて指数値を計算し、その上昇あるいは低Tによって、その種の群集内での価値を判断するといった方法は検討に倍すると考えている。 その際にはサンプルの大きさによって指数値が上下することだけは避けておかねばならない。

 さて、舞坂でのとんでもない話を紹介しよう。 晩年の森下先生は耳がたいへんに不自由であった。 長い結核との闘病生活のうちにストレプトマイシンの服用回数が多く、本人に言わせれば「ストマイ〇〇〇(差別用語であるので書かない)」だそうである。 要するに薬の副作用で絶えず耳鳴りがして外部の音が聞こえなくなっているという。たしか先生が七六、七歳ころであったが、電話をするとき当人は普通の声で話しているつもりでも受話器は割れんばかりの音となり、こちらも大声で怒鳴るがごとくお話をするのが常であった。家内などは遠くにいても「さっきの先生とのお話は何だったの?」とたちまち通話先がわかるほどであった。 先ほどの傘寿の会の前後ではなかったと記憶する。 その日も舞坂での夕食ということになった。 その頃は先生の聴覚はもうまったく駄目で筆談でこちらの意志を伝えねばならなくなっていた。 そのために先生はいつも一度かいてはがせばまたその上から書ける、 商品名はなんというか私は知らないが、くり返し使えるリサイカブルなメモ帳をいつも携帯されていた。 ただし、ご当人は普通通りに話しをされてこちらにはちゃんと開き取れた。 舞坂では沢山の話題がでた。 森下先生がしゃべる。 私はだまってメモ帳に書く。それを読んで先生がまたしゃべり、 プラスチックをはがして私にメモを手渡す。 これの繰り返しで、2〜3時間はしたがって私はだんまりであった。 さて、帰るときになり、私は勘定にたった。先生が払おうとするのを私はだまって手で別してカウンターの前にたち、「おいくらでしょうか?」 と普通の声で尋ねた。カウンターの向こうのお姉さんの顔の驚き顔はみものであった。 けげんな顔で私を見て何とも不思議な顔で「ありがとうございます」といってくれた。  思うに、数時間にもわたりただ黙ってメモをかいては渡し、それに大声(声量がないのでやや甲高いが)で答えている二人をみていて、 私の方の口が不自由と見られたのである。 「ことばを失う」 というのは驚いたときの表現であるが、 言葉を十分に? もっていながら 「失わされた」 のは私にとっても空前絶後の経験であった。 先生はそんなことには全く気づかず、河原町を歩きながら、舞坂での話を熱心に続けてられていた。 森下先生の奥様もつい先日おなくなりになった。 その跡の整理のために京都に数年ぶりに来て、 舞坂を一人で訪れた。  以上がなつかしさのあまりの私のメモである。

  「生涯現役」といわれるが、それを押し通すのは並大抵ではない。あふれるような好奇心とそれを満たすためのあくなき探求心とが現役を支えるのであろう。いつも虫が頭の中で鳴いているような状態で、83才の原著論文をものにした先生はただそのことだけでも私たちに大きな教訓を残してくださった。

出典:(株)プレック スタディレポートvol.8(2002年12月25日発行)
うなぎの舞阪河原町三条店は2012年7月28日に閉店しました、京都舞阪本店は営業しています。

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